
あらさらむ この世のほかの 思い出に
いまひとたびの 逢ふこともがな
もうじき私はこの世から去りますが、あの世への思い出に、もう一度あの人に逢いたいのです。
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この歌を詠んだ和泉式部は、日記文学の代表作『和泉式部日記』でも有名な女性です。
和漢の詩歌に通じ平安時代を代表する女流歌人であった彼女が、晩年、「自らの死を前にして詠んだ」のがこの歌です。
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この歌は『後拾遺集』(七六三)に掲載されていますが、詞書には「心地例ならず侍りける頃、ひとのもとにつかはしける」と記されています。
病に侵され、あと数日の命と知ったとき、彼女は自らの思いを歌に詠み、親しい人にこの歌を送っているわけです。
逢いたい相手が誰なのか定かではありません。
仏門に帰依した身としては不謹慎とも思える歌ですが、彼女は人生の思いのすべてを、この一首に託したのです。
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いかでわれ この世のほかの 思ひ出に
風をいとはで 花をながめむ
西行
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心もて この世のほかを 通しとて
岩屋の奥の 雪を見ぬかな
藤原定家
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いかに和泉式部が天才歌人だったかということ、たった三十一文字の短い言葉のなかに、一人の女性の壮大な人生ドラマと、その時代背景までをも詠むことができるということ、そして彼女が今も私たちの心の中に生きていることを、藤原公任の「名こそ流れてなほ聞こえけれ」の歌と並べることで、定家は伝えたかったのだと思います。
『ねずさんの日本の心で読み解く「百人一首」: 千年の時を超えて明かされる真実』
より引用
s.ameblo.jp/inukayh777/entry-12136955172.html、
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『「妻をひとりにしておいてあげよう」と、しばらく家を空けて実家に帰ってしまいます。
それは夫の妻を思いやるやさしさでした。
けれどそのことが和泉式部には、夫に見捨てられてしまったように感じられてしまいます。
そこで和泉式部は、縁結びの神様として有名な貴船神社にお参りに行きます。
その参拝の帰りに、和泉式部が詠んだ歌があります。
もの思へば 沢の蛍も 我が身より
あくがれいづる 魂かとぞみる
この歌には和泉式部の詞書があります。そこには次のように書いてあります。
男に忘られて侍りける頃、
貴船にまゐりて、
御手洗川にほたるの
飛び侍りけるを見て詠める
和泉式部は、夫のおもいやりを、自分が夫に忘れられたと思えてしまったのです。
だから貴船神社にお参りをしました。
その帰り道、暗くなった神社の麓に流れる御手洗川に、たくさんのホタルが飛んでいる姿を見て、自分の魂も、もうこの肉体から離れて(死んで)あのホタルとなって、何も考えずに自由に飛び回りたい、そんな歌です。
ところがこの歌を詠んだとき、和泉式部の頭の中に、貴船の神様の声がこだまします。
その声を、和泉式部は歌にして書き留めています。
奥山に たぎりておつる 滝つ瀬の
たまちるばかり 物な思ひそ
貴船神社の御神体は、神社の奥にある滝です。
その滝が「たぎり落ちる」ように魂が散る、つまり毎日、多くの人がお亡くなりになっています。
要約すると神様の声は、次のようになります。
貴船神社の奥にある山で、
たぎり落ちている滝の瀬のように、
おまえは魂が散ることばかりを思っておるのか?
人は、いつかは死ぬものじゃ。
毎日、滝のように多くの人が
様々な事由で亡くなっていることをお前も存じておろう。
人は生きれば、いずれは死ぬのじゃ。
おまえはまだ生きている。
生きているじゃないか。
生きていればこそ、ものも思えるのじゃ。
なのになぜお前は魂の散ることばかりを思うのじゃ。
和泉式部は、夫のとの間にできた男の子が元服したのを機会に、そのやさしい夫である藤原保昌から逃げるように、夫に無断で、尼寺に入ってしまいます。
彼女はそのとき、すでに四十七〜八歳となっていたようです(正確な年齢はわからない)。
寺の性空上人は、和泉式部が髪をまるめたとき、自分が着ていた墨染めの袈裟衣を和泉式部に渡してくれました。そして、
「この墨染の衣のように、すべてを墨に流して御仏にすがりなさい」と仰しゃいました。
彼女も、その衣を着ることで、現世の欲望を絶ち、仏僧として余生を過ごそうと決意しました。
ところが、出家して間もないころ、彼女は不治の病に倒れてしまうのです。
医師の見立てでは、あと二〜三日の命ということでした。
そうと知った彼女は、病の床で、最後の歌を詠みました。
それが冒頭の、
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
いまひとたびの 逢ふこともがな
です。彼女はその歌を、親しい友に託しました。
人生の最後に、和泉式部が「もう一度逢いたい、そのあたたかな胸に抱かれたい」と詠んだ相手が誰だったのかはわかりません。
彼女は亡くなりました。
和泉式部は生前にたくさんの歌を遺しました。
彼女の歌で、特に秀逸とされるのは哀傷歌といって、為尊親王がお亡くなりになったときに、その悲嘆の気持ちを詠んだ歌の数々とされています。
けれど小倉百人一首の選者の藤原定家は、和泉式部を代表する歌として、彼女の晩年の最後のこの歌を選びました。
歌に使われる文字は、たったの31文字です。
そして、その歌にある表面上の意味は、たんに「もう一度逢いしたい」というものです。
けれど、そのたった31文字の短い言葉の後ろに、ひとりの女性の生きた時代と、その人生の広大なドラマがあります。
人の生きた証が、そこに込められているのです。』
nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2932.html?sp
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和泉式部が最後に逢いたかった人は誰だったのだろう、ずーっと考えてきました。
上のねずさんの「和泉式部まとめ」的なブログを読んで、やっと謎が解けました。
やはり、和泉式部の中に
イサナミから始まる日本女性としての美徳が受け継がれなければ、私たちに共感をもたらすことは、できません。
弟橘媛や豊玉姫、民さん、いろいろな感動する女性の愛の美徳の共通点を考えれば、和泉式部の逢いたかった人がわかります。
不幸な結婚に終止符を打って、愛に生き、たくさんの哀しみと喜びを和歌に託す人生を送った和泉式部。
最後に愛した夫の保昌とは、心のすれ違いで、その溝は埋まることなく出家されたのだと私は思います。
死ぬ間際、逢いたかった人は保昌としか考えられませんね。
和泉式部の非凡で悲しい人生は、ご神命であったのでしょう。
うかれ女と言われても、式部の愛は純粋だったのです。
平凡で、ありきたりの幸せの中で生きる私たちに、
愛することの素晴らしさ、悲しさを、そして全身全霊で愛と向き合って生きた人生を、現代に生きる私たちに、静かに語りかけてくれるます。
心の中にこの和歌を育むかぎり
和泉式部は愛というものを、惜しみなく教えてくれるのではないでしょうか。
本当に素敵ですね💖