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2020年11月

2020年11月11日 (水)

神社での参拝の作法

歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに。

今日のねずブロは《神社での参拝の作法》です。

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単に参拝の作法だけでなく、その作法がある意味などに踏み込んで書いてみました。

神社関係者の方々すると、何をいまさらと笑われるかもしれませんが、たいせつなことなので、ご一読賜れば幸いに思います。

日本のおもしろいところは、こうしたすべてが「作法」として定着していることです。

「作法」は、決まりではありません。
強制でもありません。
ましてや命令でもなければ、契約でもありません。
あくまで作法であり心得です。

我が国では大切なことは、こうして作法にして定着させるということが古代から行われてきました。
命令でも強制もありませんから、神社での参拝が作法通りでなかったからといって、逮捕されることも勾留されることも、罰金を取られることもありません。

けれど、その作法によって、所作は美しいものとなり、作法を通じてその意味を理解することで、大切なものは何かが自然と定着するようになっています。
それが、諸外国にはない、日本の流儀です。

これが可能になったのは、我が国の天皇が万世一系であり、ご皇室の尊厳が、そのまま我が国の最高権威となり、国家権威よりも上位にあって、かつ、その最高権威が民衆を最高の宝である「おほみたから」としたという、我が国の根幹をなすという、我が国固有の体制があるからです。

そうでなければ、できないのです。
国のトップが政治権力者であったり、国の富を人口のわずか1%の大金持ちが寡占し、その富者が政治を裏から牛耳るといった政治体制のもとでは、民衆は常に逆境に置かれるわけです。
どのようにきれいに偽装したとしても、政府はただ民衆から収奪をするだけですから、いざとなれば、たとえば天然の災害でも起ころうものなら、民衆は自分の生命や財産を護るために武装し、一斉蜂起し、暴動を起こします。
なぜならそうするしか、身を護る方法がないし、常にそこまで生活が追い詰められているからです。

国の富が民衆に分散され、特別な大金持ちもいない代わりに、超のつく貧乏人もいない。
誰もがそれなりに真面目に働きさえすれば、確実に中流の(つまり人並みの)生活を送ることができる。
民衆が総中流化しているうえに、いざ災害などの天変地異が起これば、必ず政府が被災者のために行動を起こしてくれる。
そして政治が被災者のために行動を起こすのは、それが国家最高権威によって政治権力に与えられた役割になっている。
そういう社会体制が、何百年、何千年と培われてきたからこそ、日本では災害時に暴動が起こらないのです。

そしてそういう社会体制が根幹にあるからこそ、政府も、神官も、ただ「これが作法ですよ」というだけで、民衆は黙って、それに従う。
これこそ人類が希求し続けた、究極の社会体制と言えるものなのではないでしょうか。
そんな国を日本は築き続けたのです。

私達が取り戻そうとしている日本は、そういう日本です。
このことに反対し、あるいは攻撃を繰り返す人たちというのは、どういう人たちでしょうか。
日本の治安が悪化し、悪党がはびこり、民衆が収奪される世の中を求めているのでしょうか。
そうであるなら、それは、日本にとっての害毒というだけでなく、人類にとっての敵です。
そして神々は、そのような人たちを決して許すことはないと思います。

ご神意に自分を同化させて生きる道のことを「かんながらの道」と言います。
日本人は「かんながらの民」です。
そして日本は「かんながらの国」です。

ただ、ここまで書いた上で、ひとつ申し上げたいことがあります。
それは日露戦争における日本海海戦を我が国の大勝利に導いた秋山真之(あきやまさねゆき)の言葉です。

「細心蕉盧は計画の要能にして、
 虚心平気は実施の源力なり。

 天剣漫録より事の成敗は天にありともいえど、  人事を尽くさず天、天と言うことなかれ」


けだし名言だと思います。

全文はブログでお読みください。

https://nezu3344.com/blog-entry-4656.html

2020年11月10日 (火)

大西瀧治郎中将と日本の心

メディアの偏向が著しい昨今ですが、戦後の新聞記者やテレビなら「問題発言!」として、大問題にされ、大騒ぎになるかもしれない発言のことを、書いてみたいと思います。

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昭和19(1944)年10月20日のことです。

この日の早朝、特攻隊の産みの親である大西瀧治郎海軍中将は、初代海軍特別攻撃隊(特攻隊)に任命された関大尉以下、敷島隊の隊員達を集めて次の訓示を行いました。


〜〜〜〜〜〜〜〜

日本はまさに危機である。

この危機を救いうるものは、大臣でも軍令部総長でも、のような地位の低い司令官でもない。

したがって、私は一億国民にかわって、みなにこの犠牲をお願いし、みなの成功を祈る。


みなはすでに神であるから、世俗的な欲望はないだろう。

が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが成功したかどうかであろう。

みなは永い眠りにつくのであるから、それを知ることはできないだろう。


我々もその結果をみなに知らせることはできない。

私はみなの努力を最期までみとどけて、上聞に達するようにしよう。

この点については、みな安心してくれ。

〜〜〜〜〜〜〜〜


ここまで話して、中将は涙ぐまれたそうです。

そして、隊員たちひとりひとりの顔を、その目にしっかりと焼き付けるように見回し、

ひとこと、


「しっかり頼む!」

と述べられました。


さらに訓示を続けられたあと、大西中将は、隊員一人ひとりと握手されています。


http://nezu3344.com/blog-entry-1661.html#more


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2020年11月 9日 (月)

台湾は待っている

台湾出身の鄭春河さんのご遺稿をブログでご紹介したとき、南星会の居候さんから、次のコメントをいただきました。

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「鄭春河さんね。

台湾歩兵第一第二連隊戦友会は最後の最後まで日本の正義を信じて笑って死にましたわ。

もうほとんど生きてませんけど、10年も前に台北で最後の師団単位の集まりがあって、従軍看護婦だった人も来て、みんなで恩賜のたばこ吸って笑ってお別れしましたのよ。


鄭さんは代理神主の資格があってね、台南の鄭成功神社で正式の神主の恰好で神式の儀式最期にやりましたよ。みんな普通のまともな日本人でした。 


台湾はね、待ってるんですよ。

聯合艦隊は必ず来る。

日本は必ず立ち直って台湾を助けに来る。


信じてるんです。


日本を信じて戦った台湾臣民を、祖国日本が見殺しにするはずがないでしょうが。

違うとでもおっしゃるんですか。

あんたらそれでも人間のつもりですか。」


私には、返す言葉がありませんでした。


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2020年11月 8日 (日)

オトポール事件

オトポール事件というのは、昭和13(1938)年3月にモンゴルと満州の国境付近にあるオトポール駅で、旅費も食事も防寒服も満足になく凍死寸前の状況にあったユダヤ難民を保護し、彼等の命を救った事件です。

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3月の北満州といえば、まだまだたいへんに寒い時期です。

ドイツや周辺諸国を逃げ出したそのユダヤ人たちは着の身着のままの姿でした。


そんな彼等の入国を、当時の満州国政府は拒否しました。

理由は、ナチス・ドイツへの遠慮です。

実はこれは、満州国に限らず、当時の世界中の諸国がユダヤ人の入国を拒否していたのです。


そんな彼等を救ったのが当時ハルビンで関東軍特務機関長だった樋口季一郎少将でした。

樋口少将は、次のように述べました。

「わずかな荷物と小額の旅費だけで野営しながらオトポール駅に屯ろしているユダヤ人を、もし満州国が入国拒否するなら、ユダヤ難民の進退は極めて重大である。しかるに『五族協和』をモットーとする、『万民安居楽業』を呼号する満州国の態度は不可思議千万である。」


そして友人で南満州鉄道の総裁の松岡洋右に連絡を取り、満鉄の救援列車の出動を命じてもらいました。


こうして「臨時の」救出列車は、ハルピンと満州里駅を13回往復し、オトポール駅に集まっていたユダヤ人全員を救出しました。

このとき救出されたユダヤ人の数は、一説によれば二万人、そのユダヤ人の方々が、満州のハルピンで歓迎を受け、そこから上海などを経由して米国へと疎開していきました。

これが、オトポール事件の概略です。


ただ、この事件に関し、二万人ではなく二千人程度だったのではないかとか、あるいはこの救出事件自体がなかった、などという説が、一部の左翼系の学者等を中心に出されています。
理由は、当時この事件が、新聞等のメディアでまったく報道されていないことによります。

ただ、この事件に関して、ドイツのリッべントロップ外相が、オットー駐日大使を通じて次のような抗議文を送っています。
「今や日独の国交はいよいよ親善を加え、両民族の握手提携、日に濃厚を加えつつあることは欣快とするところである。然るに聞くところによれば、ハルビンにおいて日本陸軍の某少将が、ドイツの国策を批判し誹謗しつつありと。もし然りとすれば日独国交に及ぼす影響少なからんと信ず。請う。速やかに善処ありたし。」
つまり、オトポールの救出は「あった」ということです。

では、なぜ、日頃記録を正確に付けることが得意な日本人が、被救出者の名前や人数を正確に記録していないのでしょうか。
なぜ、報道機関は、この事件をまったく報道しなかったのでしょうか。
実は、このオトポール事件について、ユダヤ人たちを救った樋口少将の奥様でさえ、夫がこのような善行を施していたことをまったく知らなかったのです。
それはなぜでしょうか。

理由があるのです。
当時日本は、ドイツとの間で「日独防共協定」を結んでいました。
そしてドイツはこれを拡大解釈して、ユダヤ人も防共の対象としていました。
ドイツにとって、ユダヤ人殲滅は、これは国策であったのです。
ひとつの政策を断固実施しようとするとき、これに逆らうものは断固排除する。
それが当時のナチス・ドイツの政治です。
つまり日本がユダヤ人に手を貸せば、これは「日独両国の政治的外交問題になる」ということです。

これに対し、当時の樋口少将が採った行動は、このユダヤ難民への対処を、
「政治上の問題」ではなく、
「人道上の問題」にしたことです。

樋口少将が関東軍司令部に送った書簡です。
「私の行為は決して間違っていない。法治国家として当然のことをしたまでである。
満州国は日本の属国ではない。ましてドイツの属国でもない。たとえユダヤ民族抹殺がドイツの国策であったとしても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない。」

そしてこれ受けた当時関東軍の参謀総長だった東條英機(後に首相)は、樋口の救出に全責任を持つことを請け合ったのです。
「たとえどんなに相手が強くても、弱い者いじめは許さない」

こうなるとドイツは分が悪いのです。
政治問題化させればさせるほど、むしろ日本側に世界の同情が集まる。
だからドイツも黙りました。

そして難民に対しては、日本は、彼等の移動のための列車を用意しただけではなく、彼等の宿泊所、着替え、食事を提供し、さらに親戚をたどって上海や米国に逃れたいという希望者には旅費まで面倒を見ているわけです。
当然、そのためには、ひとりひとりの名前等についても正確に記録されたであろうけれど、すべてそれらは水面下の出来事とし、一切の公開はしませんでした。

手柄を誇れば、我欲になります。
そしてそれだけではなく、それは政治上の問題になります。
けれど、どこまでも人道のために行っただけであって、相手が誰かさえも、人数さえも「わからない」としておけば、政治問題にできないのです。

簡単な理屈です。
「日本がユダヤ人を助けたのは許せない」
「はい。誰を助けたのですか?それはなんという人なのですか?人数は何人ですか?」
情報がなければ、政治上の問題にできないのです。

樋口季一郎の行為について、アブラハム・カウフマンの息子のテオドル・カウフマンは、著作の中で「樋口は世界で最も公正な人物の一人で、ユダヤ人にとって真の友人である」と書いています。
そしていま、米国で活躍する多くのユダヤ系の人達の祖父母、曾祖父母たちは、こうして日本人、樋口季一郎と松岡洋右、東條英機らによって助けられた人達なのです。

日本は、歴史の真実を知れば知るほど、日本人の凄み、祖先たちの勁さを知ることができます。
どこかの国が、歴史の真実を知れば知るほど、恥ずかしくて正視できなくなって、もう歴史を捏造するしかないのとは大違いです。
そんな日本を、わたしたちはもっともっと学んでいきたいと思います。


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2020年11月 7日 (土)

岩崎ユキと従軍看護婦のはじまり

岩崎ユキという、わずか17歳の少女の覚悟と死を最初に知ったとき、私は人前だったのに涙があふれました。

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是非、みなさまにご一読賜りたいと思います。


明治27(1894)年8月1日、日本と清國の双方の宣戦布告によって「日清戦争」(〜1895)が勃発しました。

戦争指導のため、明治天皇と大本営が広島に移りました。

このとき国会も広島に場所を移しています。


日清戦争のために出征した日本の将士は総計30万人です。

広島の宇品の港には、軍船がひっきりなしに往来しましたが、こうした大兵の往復海運は、衛生と関係が深く、まして戦争となればこれに戦傷病者が加わります。


戦死や負傷に比べ、病人の数は何倍にもなります。

ましてChinaはコレラ、赤痢、疱瘡その他、伝染病の問屋ともいうべき場所でした。


このため7月20日には、広島城の西側の広島衛戍病院も戦時編成の広島陸軍予備病院へと改編されていました。

そして実は、ここが日本ではじめて女性が軍看護婦として採用された病院でした。


医師に看護婦という組み合わせは大昔からありました。

しかし、戦は男がするものです。

ですから我が国においては古来戦場に出向くのは医師も看護人も、すべて男でした。

このことは、明治維新の際の戊辰戦争や、その後の西南戦争、佐賀の乱等においても同じです。

戦場ないしその後方には病院がありましたけれど、医師も看病人も、すべて男でした。


******

「お父さま、お母さま、

 ゆきは大変な名誉を獲得いたしました。

 家門の誉れとでも申しましょうか。

 天皇陛下にゆきの命を喜んで捧げる時が来たのであります。

 数百名の応召試験の中から、

 ゆきはついに抜擢されて、

 戦地にまでも行けるかも知れないのであります。


 ゆきは喜びの絶頂に達して居ります。

 死はもとより覚悟の上であります。

 私の勤務は救護上で一番恐れられる

 伝染病患者の看護に従事すると云う最も大役を

 命ぜられたのであります。


 勿論予防事項については充分の教えは受けて居ります。

 しかし強烈あくなきばい菌を取扱うのでありますから、

 ゆきは不幸にして何時感染しないとも限りません。


 しかし、お父さま、お母さま、考えても御覧下さい。

 思えば思う程この任務を命ぜられたのは

 名誉の至りかと存じます。

 それはあたかも戦士が不抜と云われる要塞の

 苦戦地に闘うのと同じであるからであります。


 戦いは既にたけなわであります。

 恐ろしい病魔に犯されて

 今明日も知れぬと云う兵隊さん達が

 続々病院に運ばれて来ます。


 そして一刻も早く癒して再び戦地へ出して呉れろと

 譫言にまでどなって居ります。

 この声を眼のあたりに聞いては

 伝染病の恐ろしいことなぞはたちまち

 消し飛んでしまいます。

 早く全快させてあげたい気持ちで一杯です。

 感激と申しましょうか、

 ゆきは泣けて来て仕方がありません。


 今日で私の病室からは十五人もの兵士達が死んで行きました。

 身も魂も陛下に捧げて永遠の安らかな眠りであります。

 また中には絶叫する兵士達もありました。

「死は残念だぞ!

 だが死んでも護国の鬼となって

 外敵を打たずに済ますものか」と

 苦痛を忘れて死んでいったのです。


 あるいは突然「天皇陛下万歳!」と叫ぶので

 慌てて患者に近寄りますと、

 そのまま息が絶えていた兵士達もありました。


 しかも誰一人として

 故郷の親や兄弟や妻子のことを叫んで

 逝ったものはありません。


 恐らく腹の中では飛び立つほどに

 故郷の空が懐かしかったでありましょう。

 ただそれを口にしなかっただけと思われます。

 故郷の人達は、彼の凱旋を、

 どんなにか指折り数えて待っていたことでありましょう。


 悲しみと感激の中に、私はただ夢中で激務に耐えて居ります。

 数時間の休養は厳しいまでに命ぜられるのでありますが、

 ゆきの頭脳にはこうした悲壮な光景が

 深く深く焼きついていて、

 寝ては夢、醒めては幻に見て、

 片時たりとも心の落ちつく暇がありません。


 昨日、人の嘆きは今日の我が身に振りかかる世のならい

 とか申しまして、

 我が身たりとも、何時如何なる針のような油断からでも

 病魔に斃されてしまうかも解らないのであります。


 しかしゆきは厳格なお父様の教育を受けた娘であります。

 決して死の刹那に直面しても

 見苦しい光景などは残さない覚悟で居ります。


 多くの兵士達の示して呉れた

 勇ましい教訓通りにやってのける決心であります。

 決してお嘆きになってはいけませぬ。


 男子が御国のために名誉の戦死をしたと

 同様であると呉れ呉れも思し召して下さい。」


*******


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2020年11月 6日 (金)

薙刀と娘子隊

今日のタイトルは「薙刀(なぎなた)と娘子隊(じょうしたい)」です。

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慶応4(1868)年8月23日、会津藩若松城下に新政府軍がやってきました。

その数、なんと7万5千の大軍です。

迎え撃つ会津の武士たちは、正規兵が約3500人、客員兵と呼ばれる幕軍崩れの参加兵が1800名、合計わずか5300名です。

しかも会津藩正規兵の主力は、いまだ国境にいます。


城下に残っているのは、少年で構成される白虎隊だけです。

銃を持った者は百名たらず、兵糧米と弾薬はまったく備蓄がありません。


激しい雨が降る中、城下に敵襲来を知らせる激しい半鐘が鳴り響きました。

城下にいる武士の家族や町民たちに避難を知らせる早鐘です。


***


隊長の中野竹子は、会津城下において、美しい才女として誰もが羨む女性でした。

当時、会津の銭湯はどこも混浴だったのだそうです。

竹子は、1、2度、銭湯にいったことがあり、その美貌と美しいふくよかな体が、男たちの目を釘付けにしたといいます。


その竹子に、乱戦の中、一発の流れ弾が、彼女の額に命中します。

竹子がドウと倒れる。

額の血が、草を真っ赤に染めます。


息も絶え絶えに竹子は、それでも気丈に妹の優子を呼びました。

そして「敵に私の首級を渡してはなりませぬ」と、介錯を頼みます。


妹の優子は、16歳です。

とまらない涙をぬぐいながら、それでも気丈に、姉の首を打ち落としました。


優子は、姉の首を小袖に包むと、坂下まで落ち延びます。

そして法界寺の住職に姉の首の葬送を頼みました。


中野竹子が、長刀(なぎなた)に結びつけていた自詠の短冊です。


 武士(もののふ)の

 猛(たけ)き心に比(くら)ぶれば

 数にも入らぬ我が身ながらも


竹子を失った一行は戦陣を離れ、その後入城を果たし、多くの女性たちとともに必死で篭城し、最後まで戦い続けました。


会津藩は、幕末から明治にかけて多くの偉人を輩出しましたが、その教育は江戸時代においても群を抜いていたといわれています。

その会津にあった教えが、「什(じゅう)」です。


会津では、子供たちは、毎日これを大声で復誦したといいます。


~~~~~~~

一 年長者の言ふことには背いてはなりませぬ。

一 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。


一 虚言(ウソ)を言ふ事はなりませぬ。

一 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。


一 弱いものをいぢめてはなりませぬ。

一 戸外でモノを食べてはなりませぬ。


一 戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ。

ならぬ事はならぬものです

~~~~~~~


人の道というのは、まさに「掟」なのだと思います。


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2020年11月 5日 (木)

栗のお話

栗のお話をしてみたいと思います。

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どういうことかよくわからないのだけれど、最近では「栗(クリ)」といえば、天津甘栗のイメージなのだそうです。

なるほど、スーパーや商店街などで天津甘栗屋さんは、よく見かけます。


この天津甘栗というのは、China産の栗(くり)で、これは小粒で甘いのが特徴です。

栗は、他にも西洋栗なんてのもあって、これはマロングラッセなどによく使われる。


そういうのが栗だと思っていると、栗拾い園などに行って、栗を自分の手で拾ってみたとき、ひどく驚くことになります。


なぜ驚くかというと、

栗がでかい!、甘い!、うまい!


実はこの、大きくて甘くて美味しいというのが、日本栗(ニホンクリ)の特徴なのです。


栗は長いこと「Chinaから渡来し、江戸時代に品種改良されて、いまのニホンクリになった」とされてきました。

ところが、この筋書きを一変させたのが、青森県の「三内丸山遺跡」です。

なんとそこでは、いまから約5000年もの昔に、栗が栽培されていたことがわかったのです。


ただ栽培されていただけじゃありません。

管理栽培されていた。

それもなんと、1500年もの長きにわたり、栗が栽培されていたのです。


大きな実は、もちろん食用です。

そして栗の大木は、建築資材として用いられたのです。

そして何千年の時を経て、日本の栗は品種が改良され、いまのような大粒でたくさん採れて、甘くて美味しい栗になったのです。


栗は日本書紀にも登場します。

「栗栖」と書かれている。


「栖(す)」というのは、いまでは住処(すみか)のことで、昔は栽培している場所を表しました。

ですから、代々の天皇が持っていた「栗栖」は、栗の木を栽培していたところです。


9世紀には、常陸国の鹿島神宮の遷宮にあたって、大量の材木を使うため、 神宮司が神宮のそばに成長の早い栗の木を5700本、 杉を4万本植えることを太政官に申請し、許可されたことが、「日本三代実録」に記されている。


また、中世の荘園では、田畠からの年貢だけでなく、栗林については面積が、桑、漆、柿などは本数が正確に調査され、 それぞれに税金が課せられています。


要するに、栗が税の対象だったということは、栗がそれだけ国家的資産として、とても大切にされてきたということでもあります。


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2020年11月 4日 (水)

文明の衝突

ある米国黒人が言ったそうです。
「俺たちの祖先は人じゃない。奴隷だ」

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この言葉には、たいへん大きな意味があります。
「人ではなかった」というのです。

アメリカには二種類の被征服民が存在します。
ひとつは、みなさまご存知の通り、黒人たちです。
彼らは、奴隷となることで、人種を保持し、つなげました。
ただし、現在米国にいる黒人の方々は、肌の色が黒くても、ほぼ100%白人との混血種です。

もうひとつは、アメリカインデアンたちです。
アメリカインデアンたちは、白人の奴隷となることを断固拒否しました。
そして戦いました。
その結果、彼らは、死滅させられました。
彼らは、もともと北米大陸に800万人の人口があったと伝えられています。
けれどいま、北米大陸に現存するインデアン種は、たったの35万人です。
そして全員、白人との混血種です。

文明の衝突という言葉があります。
平成8年(1996)に出版された、米国の政治学者サミュエル・ハンチィントンの著書のタイトルで有名になった言葉ですが、この本の衝撃は、あまりに強いものでした。
それは、異なる二つの文明が衝突したとき、それは「どちらか一方が消滅するまで戦いが続く」ことを意味するものだったからです。


戦いの結果は、どちらかの文明が完全に滅びてなくなるまで続きます。
そして滅びる側のは、文明も種もなくなるか、世界秩序の中で劣位・・・つまり下位に置かれる(奴隷化する)ことで文明が滅んで種だけが生き残るか、そのどちらかの選択しかないというわけです。

上の例でいえば、文明も種も滅んでなくなったのが、アメリカインデアン。
文明が滅び、言語も失われたけれど、種だけが混血して生き残ったのが米黒人種ということになります。

他にもあります。
かつて南米には、スペイン、ポルトガルがやってきました。
そしてアルゼンチンやウルグアイは、完全に白人だけの国家になりました。
そこには先住民の文明も、種も、痕跡さえなくなっています。
そこでは先住民族たちが、ほぼ完ぺきに抹殺されたのです。

同じ南米でも、エクアドルやペルー、ボリビアなどには、原住民系の顔立ちの人たちが数多くいます。
けれど彼らは、支配階級が白人の純血種、そして先住民系の人たちは貧困な被支配層となっています。
そして、100%白人種との混血です。
そして先住民たちが、かつてもっていた文明は、言語習俗習慣さえ、完全に消えてなくっています。

このことは現代においても、わたしたちの目の前で繰り広げられています。
中共漢族によるチベット、ウイグル、女真族に対する民族浄化と称する混血の推進と文明と血の消去がそれです。

これが文明の衝突です。
文明の衝突は、片方が完全に絶滅するまで続けられるのです。

日本は、もともと多文化共生を目指す社会です。
東亜のはずれにある島国の日本には、かつて様々な種がやってきました。
有色人種もいたし、白人種もやってきました。
けれど、そうした様々な人種や文明が、日本という国でひとつに溶け合い、融合し、それぞれの良いところを活かしあって、日の本にひとつになり、日本というひとつ屋根の下に暮らす家族となって、新たな文明を長期間に渡って築いてきたのが日本であり、日本文明です。
日本は多神教国ですが、それは同時に多文化共生国であることをも意味しています。

その日本に、かつて、異文化排除をもらたす征服民族の脅威がやってきました。
日本は、多文化共生社会と種を維持するために、国内の大改革を成し遂げ、むしろ積極的に彼らの文明文化を取り入れ、学び、努力して彼らと「対等な国」つくりを行いました。

その最初の出来事が7世紀の大化の改新でした。
Chinaに新たにできた軍事国家「唐」の大帝国の脅威の前に、彼らの文明を積極的に取り入れ、学び、国内の大改革を実現したのです。

その大改革によって構築された体制は、約千年続きました。
途中に、政権は貴族政権、武家政権と様々に変化しましたが、その基本となる統治体制は、ずっとそのまま保持されました。

ところが19世紀に、欧米列強の脅威がやってきたとき、日本は、二回目の大改革の必要に迫られました。
文明の衝突に勝ち抜き、日本の文化文明と種を保持するため、むしろ積極的にその脅威の根源となっている欧米の文化を学び、取り入れ、彼らと対等な国家の構築を図りました。
明治維新です。

明治維新のはじまりは、嘉永6年(1853)の黒船来航である・・・と、このことは、誰もが同じ認識であろうと思います。
学会においても、そういう認識です。

けれど、「では明治維新のゴールはいつなのか」という点に関しては、学会においても諸説あります。
明治政府の樹立をゴールとするもの、大日本帝国憲法制定をゴールとするもの、明治44年の条約改正をゴールとするもの等、さまざまです。

明治維新を、内政という面で見るならば、なるほどそのような見方ができようかと思います。
ただ、明治維新を日本文明と西欧文明の「文明の衝突への応答」とみるならば、実は、まだその衝突状態は続いているともいえるのではないかと思います。

なぜなら、日本が不平等条約を解消して、欧米諸国と完全に対等な独立国となり得たのは、嘉永6年の黒船来航以降、実は、たった3年間しかなかったからです。

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2020年11月 3日 (火)

祝日には国旗を掲揚しよう!

11月3日は「文化の日」です。

この文化の日について、日心会のMLでSさんが丁寧にまとめてくださいましたので、転載します。

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この日にあたり、「文化の日」の歴史や行事について簡単にまとめてみました。


1873年(明治6年)に公布された年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年太政官布告第344号)以降1911年(明治44年)までは天長節となっており、


1927年(昭和2年)に改正された休日ニ關スル件(昭和2年3月4日勅令第25号)以降1947年(昭和22年)までは明治節として、明治天皇の誕生日による休日となっていました。


現在では、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条により、「自由と平和を愛し、文化をすすめる日」とされています。


また、この日は去る1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布された日であり、

日本国憲法が平和と文化を重視していることから、1948年(昭和23年)に公布・施行された祝日法で「文化の日」と定められました。

ちなみに、日本国憲法は公布から半年後の1947年(昭和22年)5月3日に施行されたため、5月3日も憲法記念日として国民の祝日となっています。


さて、その日本国憲法についてですが、この「日本」という国を真の独立国として尊重していこうとする私たち日本人は、どのように認識すべきなのでしょうか。


さて、毎年「文化の日」には何があるのか?ということで申しますと、文化の日には皇居宮殿松の間におきまして文化勲章の授与式が行われ、天皇陛下から直接、文化勲章が授与(親授)されます。

文化勲章の受章者は、まず文化庁文化審議会に置かれる文化功労者選考分科会の意見を聞いて文部科学大臣が推薦し、内閣府賞勲局で審査したうえ閣議で決定します。

文化勲章受章候補者推薦要綱(内閣総理大臣決定、閣議報告)によると、
文部科学大臣は、“文化の発達に関し勲績卓絶な者”を文化功労者のうちから選考し、毎年度おおむね5名を内閣総理大臣に推薦する、とあります。
また、文化功労者以外の者でも必要と認められる場合には選ばれることもあります。

さらには、この日を中心に文化庁主催による芸術祭も開催され、
主に東京・大阪などの開催地で様々な演劇・音楽・舞踊・大衆芸能の公演が催され、文字通り文化を促進させる日となっています。

次に日本の歴史上、11月3日に起こった主な出来事を紹介します。

711年(和銅4年9月18日)
元明天皇の詔勅により太安万侶が『古事記』の編纂に着手。

1880年
天長節祝賀の宮中で『君が代』が初めて披露される。

1916年
迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子の礼。正式に皇太子となる。

1931年
宮沢賢治が手帳に「雨ニモマケズ」を書き留める。

1944年
第二次世界大戦: 日本陸軍が風船爆弾によるアメリカ本土攻撃を開始。

1949年
湯川秀樹氏にノーベル物理学賞が贈られることが決定、日本人初のノーベル賞受賞

近年だけでなく、昔から日本の文学や科学さらには御皇室にいたるまで日本の歴史上キーポイントとなる日が多いですね。

最後に、11月3日は晴天の特異日となっています。
つまり、晴れの日が多いのです。

日本の歴史を語る上で、外すことのできない日付が必ずと言っていいほど晴天とはなんだか縁起が良い気がします。

澄みわたる紺碧の秋空の下、威風堂々と翻る日章旗を見ると、心が洗われるような清々しい気分を心から感じます。
「これが我が国の国旗よ、これが我々大和民族の旗印よ。」
と思わずには居られません。

来る11月3日文化の日、皆さん国旗「日の丸」を掲揚して、お祝いしてはいかがでしょうか。


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