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2020年11月11日 (水)

神社での参拝の作法

歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに。

今日のねずブロは《神社での参拝の作法》です。

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単に参拝の作法だけでなく、その作法がある意味などに踏み込んで書いてみました。

神社関係者の方々すると、何をいまさらと笑われるかもしれませんが、たいせつなことなので、ご一読賜れば幸いに思います。

日本のおもしろいところは、こうしたすべてが「作法」として定着していることです。

「作法」は、決まりではありません。
強制でもありません。
ましてや命令でもなければ、契約でもありません。
あくまで作法であり心得です。

我が国では大切なことは、こうして作法にして定着させるということが古代から行われてきました。
命令でも強制もありませんから、神社での参拝が作法通りでなかったからといって、逮捕されることも勾留されることも、罰金を取られることもありません。

けれど、その作法によって、所作は美しいものとなり、作法を通じてその意味を理解することで、大切なものは何かが自然と定着するようになっています。
それが、諸外国にはない、日本の流儀です。

これが可能になったのは、我が国の天皇が万世一系であり、ご皇室の尊厳が、そのまま我が国の最高権威となり、国家権威よりも上位にあって、かつ、その最高権威が民衆を最高の宝である「おほみたから」としたという、我が国の根幹をなすという、我が国固有の体制があるからです。

そうでなければ、できないのです。
国のトップが政治権力者であったり、国の富を人口のわずか1%の大金持ちが寡占し、その富者が政治を裏から牛耳るといった政治体制のもとでは、民衆は常に逆境に置かれるわけです。
どのようにきれいに偽装したとしても、政府はただ民衆から収奪をするだけですから、いざとなれば、たとえば天然の災害でも起ころうものなら、民衆は自分の生命や財産を護るために武装し、一斉蜂起し、暴動を起こします。
なぜならそうするしか、身を護る方法がないし、常にそこまで生活が追い詰められているからです。

国の富が民衆に分散され、特別な大金持ちもいない代わりに、超のつく貧乏人もいない。
誰もがそれなりに真面目に働きさえすれば、確実に中流の(つまり人並みの)生活を送ることができる。
民衆が総中流化しているうえに、いざ災害などの天変地異が起これば、必ず政府が被災者のために行動を起こしてくれる。
そして政治が被災者のために行動を起こすのは、それが国家最高権威によって政治権力に与えられた役割になっている。
そういう社会体制が、何百年、何千年と培われてきたからこそ、日本では災害時に暴動が起こらないのです。

そしてそういう社会体制が根幹にあるからこそ、政府も、神官も、ただ「これが作法ですよ」というだけで、民衆は黙って、それに従う。
これこそ人類が希求し続けた、究極の社会体制と言えるものなのではないでしょうか。
そんな国を日本は築き続けたのです。

私達が取り戻そうとしている日本は、そういう日本です。
このことに反対し、あるいは攻撃を繰り返す人たちというのは、どういう人たちでしょうか。
日本の治安が悪化し、悪党がはびこり、民衆が収奪される世の中を求めているのでしょうか。
そうであるなら、それは、日本にとっての害毒というだけでなく、人類にとっての敵です。
そして神々は、そのような人たちを決して許すことはないと思います。

ご神意に自分を同化させて生きる道のことを「かんながらの道」と言います。
日本人は「かんながらの民」です。
そして日本は「かんながらの国」です。

ただ、ここまで書いた上で、ひとつ申し上げたいことがあります。
それは日露戦争における日本海海戦を我が国の大勝利に導いた秋山真之(あきやまさねゆき)の言葉です。

「細心蕉盧は計画の要能にして、
 虚心平気は実施の源力なり。

 天剣漫録より事の成敗は天にありともいえど、  人事を尽くさず天、天と言うことなかれ」


けだし名言だと思います。

全文はブログでお読みください。

https://nezu3344.com/blog-entry-4656.html

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