薙刀と娘子隊
今日のタイトルは「薙刀(なぎなた)と娘子隊(じょうしたい)」です。
慶応4(1868)年8月23日、会津藩若松城下に新政府軍がやってきました。
その数、なんと7万5千の大軍です。
迎え撃つ会津の武士たちは、正規兵が約3500人、客員兵と呼ばれる幕軍崩れの参加兵が1800名、合計わずか5300名です。
しかも会津藩正規兵の主力は、いまだ国境にいます。
城下に残っているのは、少年で構成される白虎隊だけです。
銃を持った者は百名たらず、兵糧米と弾薬はまったく備蓄がありません。
激しい雨が降る中、城下に敵襲来を知らせる激しい半鐘が鳴り響きました。
城下にいる武士の家族や町民たちに避難を知らせる早鐘です。
***
隊長の中野竹子は、会津城下において、美しい才女として誰もが羨む女性でした。
当時、会津の銭湯はどこも混浴だったのだそうです。
竹子は、1、2度、銭湯にいったことがあり、その美貌と美しいふくよかな体が、男たちの目を釘付けにしたといいます。
その竹子に、乱戦の中、一発の流れ弾が、彼女の額に命中します。
竹子がドウと倒れる。
額の血が、草を真っ赤に染めます。
息も絶え絶えに竹子は、それでも気丈に妹の優子を呼びました。
そして「敵に私の首級を渡してはなりませぬ」と、介錯を頼みます。
妹の優子は、16歳です。
とまらない涙をぬぐいながら、それでも気丈に、姉の首を打ち落としました。
優子は、姉の首を小袖に包むと、坂下まで落ち延びます。
そして法界寺の住職に姉の首の葬送を頼みました。
中野竹子が、長刀(なぎなた)に結びつけていた自詠の短冊です。
武士(もののふ)の
猛(たけ)き心に比(くら)ぶれば
数にも入らぬ我が身ながらも
竹子を失った一行は戦陣を離れ、その後入城を果たし、多くの女性たちとともに必死で篭城し、最後まで戦い続けました。
会津藩は、幕末から明治にかけて多くの偉人を輩出しましたが、その教育は江戸時代においても群を抜いていたといわれています。
その会津にあった教えが、「什(じゅう)」です。
会津では、子供たちは、毎日これを大声で復誦したといいます。
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一 年長者の言ふことには背いてはなりませぬ。
一 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
一 虚言(ウソ)を言ふ事はなりませぬ。
一 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
一 弱いものをいぢめてはなりませぬ。
一 戸外でモノを食べてはなりませぬ。
一 戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ。
ならぬ事はならぬものです
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人の道というのは、まさに「掟」なのだと思います。
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